失敗してしまえを捨てる
こんばんは、snpです。
長い人生で出会う人の数はどれだけなのでしょうか?今現在に至るまでに、この人には近づきたくない、何らかの失敗、過ちを犯してしまえって思ったこともあるかと思います。
今回はそのように他人の不幸を喜ぶような考えを捨てることについて。
他人の不幸話は面白いのか?
喜び勇んで他人の不幸を笑い場にして、喋っている輩が書いて人生において必ず現れる。
今までは、その場に居合わせた場合はフムフムと相槌を打つような立場だったが、現在は違う。
はっきり言って、その不幸な体験をした人物には同情もするが、その前にその人はなんてラッキーなヤツなんだと思うようになった。
不幸や不運に見舞われたとき、チャンスの到来だと思うようにしているからだ。
あんなヤツ失敗すればいい…
スポーツの世界などでは、ライバルの失敗を願う時がある。
- サッカーのPKを外せ!
- バスケのフリースローを外せ!
- 野球のバントをミスれ!など
ミスれ、ミスれ、ミスれ。
そんなこと願ってなんの意味があるのだろう。成功すればいいじゃないか。相手が成功すれば一緒に喜べばいいじゃないか。幸福の共有、富の共有をすればいいじゃないか。
ひとの成功を妬む嫉むことをしたところで、自分に利益が出るはずがない。
ひとが成功していることは現実なのだから、それから目を逸らそうとするのではなく、祝福する、憧れる、素晴らしいと言う、自分の脳に擬似成功を投影してみる、妄想想像してみる。
捨てるのは難しいのか
拾うより、捨てる方が楽なはず。ゴミを拾うより捨てる方が楽。
捨てるのはどうして難しいのだろうか。
自分の過去積み上げてきた記憶から抽出した観を捨てるのはかなり勇気がいることなのではないだろうか。様々な観によって自分の理念が成り立っている。
凝り固まった考えを解すには、一度全てを肯定してみるのももよい。
失敗してしまえ、ではなく、きっと上手くいく頑張れ!このくらいのモチベーションの方がいい循環の中に入って、流れが生まれやすいのではなちのかと思う。
ライバルや仕事関係の人に、失敗して台無しになってしまえ!なんて思うこと自体野蛮な行為なんだと気付きました。
人は失敗して成長するものであるので失敗した人は成長している、慰めることも少しは必要かと思いますが、そこからチャンスの芽が出るはず。失敗は負けではない。
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。