テセウスの細胞
おはようございます、snpです。
テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。
ボロくなった船のパーツを部位毎に交換していき、元の船に使われていた原材料の部品が全て新品の部品に交換された時、このボロ船は同じものなのか、と言う議論。
人間の細胞は新陳代謝で新しく生まれています。ならばわたし達の身体はテセウスの船のごとく、同じ身体なのでしょうか?
わたし達の身体は新陳代謝している
常にエネルギーを仕入れて、活動に必要な熱量を保持し代謝し、身体を動かしている。極端に言えば生きている。
細胞は常に死に排出され、新たに生み出されている。人間の細胞は正常ならば、
- 脳は1年
- 骨は3〜5年
- 血液は4ヶ月
- 肝臓、筋肉は2ヶ月
- 心臓は22日
- 胃は5日
- 腸は2日
- 肌は1ヶ月
と諸説あるが、ざっとこんな感じである。
だったら数年たったら別人?
別人にはならないようだ、今生きているあなたは数年前のあなたと同一人物であるから。
では、何が変わって何が変わっていないのか。
見た目上、何も変わっていない。
老けただけw それも変化だ。となると別人と言えるのではないか。ただ思考と記憶が新しい身体に追従して来ているだけで、人間は常に別人になっているとも言える。
断酒者として気になる(断酒してなくても)、脳と肝臓と血液。一年くらいで入れ替わるとの情報なので、一年もすれば毒された細胞も死滅排出されるのかなと素人ながら思ってしまう。
環境を変えれば別人
結局、いままでの習慣を変えることが別人、別細胞への影響が出るのかと感じている。習慣を変えることは並大抵のことではない。ましてや加えることはキャパシティ的に困難である。
だったら減らせばよくない?
加えるのが難しいなら減らすことは容易なはず。生活から酒を減らす(無くす)、コンビニに行く回数を減らす、間食を減らす、ダラダラとTVを見る時間を減らす、朝遅くまで寝ているを減らす(二日酔いとか)、悪口や陰口を減らす、など。減らせられることは沢山ある。
じゃあ、何か加えてみっか。
加えられないと思っていた心理は、自分の中で勝手に思い込んでいた既存の枠組みでしかなく、まあ枠はあるけどその枠の中身はまじカスなこと・もの・信念・観念である。それらを減らすこと、無くすことで享受できるキャパシティが生まれる。この枠自体も思い込みで狭くなっていただけ。
無理だ…これ以上やりたいけど…できないってことが少なくなって来た感じがする。むしろやりたいとことはもうできているのでは?とさえ思える。
キャパシティに加えてみるべきことは、
- 体験経験によるインプット
- 時間に関係なくできる思考(寝ている時を除く)
- 会話やコミュニケーション、ブログなどによるアウトプット
- 見返りを求めない行為、とりあえずギブしてみる
- 枠を感じさせない行為
テセウスの細胞のように、自分は常に別人になっていると思えてきます。何かを手放した時に発生するキャパシティの空きがあることに対する考え方は断酒するようになって知ることになりました。
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。